重力の使命:思弁的実在論とSF
『モノたちの宇宙』 韓国語版の刊行記念講演原稿
スティーヴン・シャヴィロ
アンホソン訳(『モノたちの宇宙』 韓国語版翻訳者)
私の著書『モノたちの宇宙』が翻訳出版されたことを心から光栄に思います。本来、この本は2014年に英語版で出版されたもので、思弁的実在論と知られている最近の哲学の潮流が向ける関心と、英米哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1867-1949)が1世紀前に提起した関心を組み合わせています。思弁的実在論者の目的は、西洋思想の主流が剥き出す人間中心主義から抜け出すことであり、これは、彼らより先に、他の仕方で抜け出そうとしたホワイトヘッドの目的でもあります。これらの哲学は、「人間は万物の尺度である」という考え方を拒みます。これらの哲学は、私たちが接するすべてのモノに私たち自身のカテゴリーと解釈を付与する仕方を指摘するだけでなく、私たちが世界のモノたちを理解する仕方とは別にモノたちが存在する仕方、つまり、私たちがモノたちに付与しようとするカテゴリーを無視したり、あるいは積極的に抗ったりしながらモノたちが存在する仕方を指摘します。
なぜこれが重要なのでしょうか?今日、私たちはかつてないほど、人間が自立した自律的な存在ではないことを理解せねばならなくなりました。私たちは、お互いだけでなく、地球を共有する無数の(人ならざる)存在と私たちをつなぐ広大な相互接続網の中にしか存在できませんし、実際、その限りにおいてのみ私たちは存在することができるのです。気候の破局が迫りつつある現代、こうした相互関係はますます脆く、希薄になっています。私たちは、私たちが(しばしば無意識のうちに)依存している他の存在に注意を払わなければ、自分自身を救うことはできません。このような文脈において、思弁的実在論の使命—モノに対する私たちの投影、モノに対する私たちのカテゴリー化、モノに対する私たちのファンタジーとは別に、モノの現存に対する高揚した感覚を得ること—は、喫緊の課題として浮上します。
この使命を果たすため、『モノたちの宇宙』は、ホワイトヘッドや現代アメリカの思弁的実在論哲学者グレアム・ハーマンのテキストを含む哲学テキストだけに注意を限定しません。この本はまた、私が取り組んできた最近の作業多くがそうであるように、SFとして知られている文学のジャンルも活用しています。私の本のタイトルである「モノたちの宇宙」は、英国のSF作家ギネス・ジョーンズの短編小説(そして後には短編小説集全体)から取ってきたものです。この物語は、3つの小説といくつかの短編からなるジョーンズの『アルーティアン』シリーズ(1991-1997)の一部です。地球は技術的に進歩したエイリアンの群れによって植民地化されます。やや恣意的に「アルーティアン」と呼ばれるこのエイリアンの群れが人間を扱うやり方は、19世紀と20世紀に西欧の植民地主義者が他の大陸で遭遇した(そして征服した)非白人の人々を扱うやり方とほぼ同様です。実は、これはSFによく使われる比喩で、少なくとも1897年のH・G・ウェルズが書いた『宇宙戦争』まで遡ります。ギネス・ジョーンズはこの比喩を再構築し、ジェンダー・人種・植民地主義の存続について、そして倫理と政治、テクノロジーと社会変化の関係について探求的な問いを抱くように、この比喩に再び命を吹き込みます。
特に、ギネス・ジョーンズの物語「モノたちの宇宙」は、エイリアンの生活世界が人間の生活世界とどのように異なるかに焦点を当てています。エイリアンは「生きている世界」に住んでおり、そこではあらゆるものが絡み合い、反応し合っています。すべてのものは多かれ少なかれ生きているのです。物語の人間主人公はこの生きている世界にさらされ、深く混乱します。彼が仕事で使用する道具は、もはや無機質な客体ではなく、まるで生きているかのようです。それらは脈を打ち、変態し、自律的に操作しているように見えます。主人公にとって、この体験はまったくもって恐ろしいもので、LSDによるとてつもなく強烈な幻覚体験の悪夢のような強度を持っています。
私はこの短編に二重の意味があると思います。一方で、小説は私たち人間がいかに偏狭で、根深く人間中心主義に陥っているかを示してくれます。私たちは疑いもなく、自分たちがすべての中心であり、世の中のすべてのものは私たちが望むがままに利用できるものだと前提します。私たちは、モノが私たちとは無関係に、それ自体に固有の存在様式と固有のニーズ、欲望、予想を持って存在する多くの仕方を無視します。物語の主人公は、少なくとも瞬く間、自分の先入観が間違っていたこと、そして(シェイクスピアの言葉を借りれば)「この天地のあいだには…〔彼の〕学問など夢にもおよばぬことが、いくらでもある」ことに気づきます。これは簡単な教訓でも、心地良い教訓でもありません。
同時に、物語は他方で、エイリアン侵略者に関して等しく神経を逆撫でする何かを語ります。アルーティアンが完全に「生きている世界」に住むことができるのは、彼らが作ったものや、彼らが相互作用するすべてのものが、究極的には彼ら自身のDNAから工学的に作られた彼ら自身の排出物だからです。私たちは、エイリアンに「分離された創造、自分のものではない生命の概念がなかった」ことを知ることになります。彼らの母星では、「這いずり回り、滑るように進み、飛び回る」生きている存在でさえ、実は彼ら自身が自分の物質で作り上げた客体なのです。アルーティアンは、私たちの人間中心主義が実際に真実であれば、私たちがどんなあり方をするかを体現します。彼らは私たちにはできないことを成し遂げました。すべてが自分の意志に従属し、すべてが自分の反映である世界を作り上げたのです。私たちは、私たちの尺度に適合しない他者性の事例に—私たちが必ずそうするように—遭遇するたびに、動揺されます。しかし、アルーティアンは実際に自分たちが考案した世界、つまり他者性が全くない世界に住んでいるのです。これが、彼らが帝国主義的な植民地支配者として成功した理由です。彼らは、彼らとしては悪意もなければ自分たちが害を与えていることにすら気づかず、人間存在を犯したり、殺害したり、あるいは破壊したりすることができます。
要するに、ギネス・ジョーンズの短編小説は、私たちが当たり前のように思っている人間例外主義がいかに有害で妄想に値するものなのかを示してくれます。究極的に成功することはあり得ませんが、限られた範囲内で成功した場合、その結果はエコロジーの破滅でしょう。さらに、物語はこれらの洞察を、論証を提供することで真理値を獲得する哲学的命題として提示しません。むしろ物語は、人間とアルーティアンの違いを物語の出発点として設定し、その違いがもたらす結果を通して機能します。エイリアンの純粋な他者性に遭遇し、自分の制限性と次第に向き合う人間主人公は、複雑な感情の交じり合いを経験します。彼は、エイリアンの要求に対応する自分の限られた能力にある程度の誇りを持っています。しかし、彼はまた、そしてより強力に、恥・孤独・敗北感を抱えています。というのも、全体的に見れば、自分はエイリアンが成し遂げたことに匹敵することができないこと、そしてエイリアンが住む世界に住むことができないことを知っているからです。
彼は自分の人生に別の世界が入り込んでくるのを目の当たりにし、その驚異を掴もうと手を伸ばした。しかし帰ってくるのは虚無感よりも良からぬ何か…子宮に這い戻っていくことほど耐え難い宝物だった。
ジョーンズの物語は、私が別のところで「寓話(fabulation)の仕業」と呼んでいるものの一例を示しています。つまり、私たちが当たり前のものとして受け入れる前提を覆すようなシナリオを、小説として精緻に描くのです。寓話は極限の可能性を追求します。それは、私たちの限界を押し広げ、私たちが予備されていない条件へ私たちをさらけ出すことです。文学理論家モース・ペッカムの言葉を借りれば、寓話は「あらゆるカテゴリーの状況を整理するために私たちが用いる知覚モデルと、固有の状況が提供する実際のデータの間の不一致」に対処するために機能します。このように、SF寓話は、フランスの思弁的実在論哲学者カンタン・メイヤスーが言うところの「大いなる外部」を探求するためのツールなのです。
ギネス・ジョーンズは、初期の思弁的な文学作品、イギリスのロマン派詩人パーシー・ビッシュ・シェリーが1816年に書いた詩「モンブラン」から自分の短編小説のタイトルを取っています。「モンブラン」の中で、シェリーは作品名にもなっているアルプス山脈の山頂をその目に焼き付け、この遭遇を通して、人間の想像力とそれに抗う形で解き放たれる自然の崇高な力の関係について思弁します。「モンブラン」は、どのように「森羅万象(モノたち)から成る永遠の宇宙が精神を貫き流れ」るかを問い、逆にどのように「切り離された」人間の精神が次のことを遂行するかを問います。「その自分自身の、生身の人間の精神は、受動的に/素早い数々の影響を反映したり、受けたりしながら/辛抱強く交流しようとしている/ぼくを取り巻く事象から成る清澄な宇宙へと」。この詩は複雑なもので、シェリーの認識論的思弁は簡単に掴み取れません。しかし、それは18世紀の哲学者ヒュームとカントの思想に根ざしているようには見えます。この二人の思想家はともに、事物に対する私たちの心的表象が、私たちが知覚、想像、あるいは記憶している、実際に存在する外部の事物それ自体とどのように関連付けられるのか疑問に思いました。
しかし、シェリーがこれらの哲学者たちからインスピレーションを得たとはいえ、シェリーは彼らの概念を新しい形に捻じ曲げました。そしてそれは容易に認識されたり、または受け入れらたりするものではございません。シェリーの詩的関心は、認識論的で合理的なものというよりは、究極的には存在論的で情動的なものに置かれています。「モンブラン」を注意深く読んでみると、シェリーは、ヒューム、カント、そして他の哲学者たちとは異なり、精神が観念・印象・表象を含むということを当然なものとして受け入れていないことを気づくことができます。彼はむしろ、実際に自分の心の中を流れているのは、単に派生的な精神的表象や印象の連鎖ではなく、「モノたちの宇宙」それ自体であると言っているように見えます。
伝統的な西洋哲学の観点から見れば、これはかなり奇妙に見えるでしょう。シェリーは、ヒュームやカントが提起した認識論的な問いに対し、新たな答えを与えていないからです。代わりに、彼は認識論を完全にすり抜けます。彼は心的表象に関する哲学的機械の電源をオフにし、それによって精神の内的表象が外的実在に対応するかどうかという問題自体を放り出します。シェリーのロマン主義的な宇宙論は、印象や表象より権力と力に依存しています。シェリーは、精神であれ身体であれ、類似度に関連する問いではなく、「交渉」のプロセスについて書いています。何かを知覚するということは、頭の中でそれを多少なりとも正確に表象することではなく、むしろ、その何かによって、精神的かつ物理的に影響を受けることであります。もし雲ひとつない空の太陽が私にその輝きを刻み、活力を与えるなら、あるいは映画が私を泣かせるなら、これは表象の問題ではなければ、旧時代の経験主義者が言う観念の連合の問題でもありません。むしろ私は、私が見たり、聞いたり、嗅いだり、触れたり、あるいは他の方法で知覚する何かによって触れられ、変容されるのです。これには、通常、知覚の側面から特徴づけられない遭遇が含まれます。なぜなら、その遭遇は、現在瞬間の私の意識的な気づきから逃れているからです。仮に、その影響がしみ込んだことでもたらされた結果が隠れたり、その結果が現れるまで遅延されても、何かが私に強い影響を与えるかもしれない点に変わりはありません。
非常に関連性の高い現代の例を挙げますと、人々がコロナウイルスに感染されたとき、彼らは実際の感染の瞬間に彼らの体内システムに入るウイルスを識別することはできません。そして言われるまでもなく、ウイルス自体はとても小さいため、私たちは見ることができません。とはいえ、私たちは、ウイルスが人々の免疫システム、肺、呼吸器系、そして全体的な身体的健康に対する感覚に影響を及ぼす仕方を通して、人々が—少なくとも遡行的に—ウイルスを知覚すると正当に言えるのです。
しかし、それだけではございません。私は、コロナウイルスも、それにウイルスに感染した人間も、等しく自然の一部であると言いたいのです。明らかに、ウイルスはある時点で野生動物の個体群から人間の宿主に移り、そこから世界中の多くの人々に伝播され、その過程で何度も変異を経ちました。農業、さらには都市開発のための開墾によって、野生の生息地が破壊され続けていることが、ウイルスをコウモリからタヌキ(Nyctereutes procyonoides)、そしてタヌキから人間への跳躍をうながしたように思われます。私たちは自然を破壊しており、ある意味、パンデミックは自然の復讐といえるかもしれません。しかし、これは過剰なほど人間中心的な見方ではないでしょうか?私たちの行為が環境危機を引き起こしているのは一まるで私たちが時に自分に言い聞かせている物語を水泡に帰させるように一私たちが実際に自然から距離を置くことができなければ、自然から自らを切り離すこともできないからです。私たちは、フィードバック、共鳴、相互含意といった自然の複雑なサイクルの中にしか存在せず、そのサイクルの中でしか存在できません。
言い換えれば、私たちが食べ物を消化できるようにする腸内細菌が自然の一部であるのとまったく同じ仕方で、私たち自身も自然の一部であり、私たちの技術的生産物もまた自然の一部なのです。そして、たとえコロナウイルスが私たちを助けるのではなく、私たちに害を及ぼすとしても、それも同じ仕方で自然の一部です。ホワイトヘッドが言うように、「われわれが自然について知っていることはすべて、一隻の同じ船に乗っており、一緒に沈むが泳ぐかどちらかなのです」。そして、さらに長くなりますが、シェリーの「モンブラン」に関する解説の中で、ホワイトヘッドは次のように述べています。
われわれの感覚によって知覚される現実的な要素は、それ自体、共通世界の要素であり、この世界はきっと、われわれの認識行為を確かに含むが、それらを超越した複合体である。この視点によれば、経験された事物は、それに関する我々の知識とは区別されるべきである。依存関係があるとしたら、事物が認識のための道を開くのであって、その逆ではない。しかし、肝心なことは、経験された現実的事物が、知識を含むとはいえ、知識を超越した共通世界に入るということだ。
知識がとるに足らないわけではありませんが、だからといってモノたちの中心に置いているわけでもありません。ヒュームやカント以降の西洋哲学は認識論的な問いに囚われてきましたが、西洋哲学におけるホワイトヘッド、そしてロマン主義作家やその後継者たちは、代わりに存在論的・情動的な問いに焦点を当てました。本当に重要なのは、私たちが外の世界についてどのように知ることができるかという問題ではなく、私たち自身が属している世界のモノたちによって私たちがどのように影響を受けるかという問題です。私たちは世界のモノたちをどのように感じるのか、そのモノたちについて何を感じるのか、そのモノたちはどのように変化するのか、そのモノたちはどのように私たちを変化させ、私たちはどのようにそのモノたちを変化させるのか。
ところで、ここでもう一つの疑問が浮かびます。すべてのものが等しく自然の一部であるとすれば、このことは物理科学にとって何を意味するのでしょうか? もし私たちが自然に対して文化を、世界の他のすべての存在に対して人間を対立させることができないのであれば、詩や文学など人間の創造性が持つ関心と、物理科学が持つ関心との間に、もはや明確な境界線を引くことはできないという結論に至ります。多くの詩人や哲学者は、過去2世紀にわたって、いわゆる「ハード」サイエンスの覇権とそれが伝統的な人文科学的関心を飲み込むことを恐れてきました。例えば、シェリーとほぼ同時代に生きたイギリスのロマン派詩人ジョン・キーツは、科学が虹の「ぬき糸」とその「織り目」を定量化およびカタログ化することによって、虹を「一般的なものの退屈なリスト」に転落させ、「虹をバラバラに分解する」科学の力を嘆きます。哲学者マルティン・ハイデガーに始まる20世紀の思想家の多くも、物理学が純粋に計算的で道具化されたビジネスであるという理由で、同様に物理学を非難します。フェンスの反対側では、物理学者のローレンス・クラウスや生物学者のリチャード・ドーキンスなど、少なくとも一部の科学普及活動家が、過去2世紀の科学的発見によって哲学や芸術は完全に時代遅れになったと暗に主張しているように見えます。この議論の両陣営は、物理学が還元主義的でデフレ的であり、(マックス・ウェーバーが主張したように)世界を脱魔術化したことを当然のこととして受け止めています。もちろん、これが良いか悪いかについては、お互いに意見が分かれています。
ところで、シェリーはこの二者択一のどちらにも当てはまりません。彼はヴェーバーの脱魔術化テーゼを先駆的に拒否します。ホワイトヘッドが指摘するように、シェリーは「[科学を]愛し、それが示唆する思考を詩で表現することに全く抵抗がありませんでした」。ホワイトヘッドは、別の時間軸では、シェリーこそ「化学者たちのニュートン」になれたかもしれないと大げさに示唆しています。(これはそれ自体、極めてSF的な提案です。)シェリーにとって、科学は解放的であると同時に啓示的です。彼が「モンブラン」で書いているように、自然に関する研究は「虚しく悲痛な巨大な法典を撤廃する」可能性を秘めています。科学は驚異を曇らせるよりは、それを解き放つのです。科学的な発明と発見への情熱において、シェリーは20世紀と21世紀のSFを特徴づける「驚異の感覚」(sense of wonder)を先取りしています。
ホワイトヘッドは、科学があまりにも頻繁に「単純な物質の剥き出しの無価値さに関する仮定」を採用し、それによって「環境の本質的な価値を無視する」ことを懸念しています。しかし、科学はまた、物質の生々しさや、私たちが生活し、呼吸している環境の本質的な価値を、私たちに深く認識させることもできます。科学的客観性は、最善において、モノたちの宇宙を人間の目的や意図の抑圧から解放し、人間ならざる存在が自分自身を証言できるようにするのです。まさに、科学がモノたちに自らを語らせる方法を見つけるときこそ、私たちは、ホワイトヘッドが言ったように、「自然は自分の美的価値と切り離すことができない」ことに気づきます。
ベルギーの科学哲学者イザベル・ステンガーズは、現役の科学者が実際に成していることと、ある種の哲学者、さらには科学者自身が、時として科学者が成していることの意味や重要性を記述する仕方を区別する必要があると述べています。言い換えれば、科学的研究の実際の結果は、その研究の根底にあるはずの理論的根拠としばしば食い違うことがあります。感受性が生命の固有の特徴であることを示す最近の証拠を考えてみましょう。植物学者フランティシェク・バルシュカと心理学者アーサー・リーバーが次のように述べています。
感受性は生命の固有の特徴である…適応し機能するすべての有機体は、初期から、感覚を持ち、意識を持ち、存在論的な自己意識を持っていなければならない。
生物学者は、正当な理由で、生命を目的と意図の観点から説明することを警戒します。彼らが反ダーウィン主義者や創造論者の「設計からの議論」を避けようとするのは正当なもので、「設計からの議論」は、生物の非ランダムで合目的的な要素が、外的で超越的な創造主が自らの目的をもっていることの証拠だと主張します。ダーウィンは自然淘汰の過程を通じて、創造主なしで有用な適応がどのように内在的に起こるかを示しました。しかし、生命そのものは目的がなく、目的を持って創造されていないとしても、特定の有機体(もしくは有機体の集団)自体が目標や目的、意図を持っていることは明らかです。生物学者は、生物が感覚情報を受け入れて処理し、その情報を使って自分のニーズをどのように満たすかについて自分自身で決断する仕方を発見し続けています。さらに、これらの決断は定型的にプログラムされているのではなく、柔軟で可変的です。バクテリアや古細菌(核を持たない単細胞)から人間に至るまで、すべての生命体は、存在するために努めること、つまりスピノザが「コナトゥス」と呼んだことにとどまらず、自分の繁栄を向上させ、拡大し、強化するために努めています。
今日、私たちが直面している問題は、他の生きているシステムの欲求や欲望と、私たち自身のシステムの欲求や欲望をいかに調和させるかです。明らかに、それらの間に「予定調和」(ライプニッツ)はありません。バランス、相互調整、そして環境フィードバックのメカニズムは、まず出来事が起きた後にのみ確立することができます。そして、このようなプロセスは、化石記録に見られる5つの大絶滅によって証明されているように、大きく狂う可能性があります。私たち自身の活動が別の大絶滅に私たちを導いていることを考えると、今日、私たちの最大の問題の1つは、6回目の大絶滅を回避する方法を見つけることです。
カナダのSF作家カール・シュローダーは、彼の最新作『世界を盗む』(2019)でこの問いに取り組んでいます。シュローダーは、自然界の存在—木や他の生物を含むのはいいまでもなく、最も決定的に、森や川などの生きている要素と生きていない要素で構成される集合体—が、自分の欲求や欲望を人間が理解できる言葉で翻訳できる近未来を思い描きます。これは、諸々の計算技術を応用することで達成されます。環境センサーが森林やその他の自然地域に広く配置されます。そして、AI(人工知能)は、これらのセンサーから受け取ったデータを集計し、環境の相互関係の過程を図式化します。例えば、AIは「木々をつなぐ菌類ネットワークによって水が移動する」仕組みや、菌類ネットワークが「栄養素を交換」し、動植物の廃棄物をリサイクルするのに役立つ仕組みを図式化します。
このようなすべての過程を経験し、翻訳するAIは奉納物(deodand)として知られています。奉納物とは、英米法に由来する古代の用語で、自分の責任と権利を持っているとみなされる人間ならざる客体を指します。このような技術体系は人間の技術の産物ですが、人間に与えられた目標に仕えません。むしろ、奉納物は、
私たちのために働いていない…それぞれが、生態系や地球物理学的な過程のような、特定の人間ならざる利害関係者であると考えている。流域も森林もクジラの群れも、誰もが自分自身に代わる奉納物を持つことができるのだ。大気さえも…奉納物は…存続を望んでいる。彼らは均衡を望んでいる。彼らは、その中で生きるすべての小さなモノたちを維持したいのだ。
このような奉納物を構想するにあたり、シュローダーは今日の世界における実際の発展から外挿します。実際、ニュージーランドやエクアドルを含むいくつかの国では、すでに川、森林、その他の自然システムに法的権利を与えています。そして、ジェニファー・ガブリスが詳細に記録しているように、環境感知装置によって、私たちはすでに、私たちが不可避的に環境を共有している多くの人間ならざる行為者の働きやニーズを、これまで以上に考慮することができるようになりました。シュローダーの小説は、こうしたすでに存在する慣習のさらなる可能性と、それが私たちの人間中心主義的な偏見を補うためにどのように貢献できるかを構想しています。このシナリオにおける最大の問題は、そもそも奉納物を作り出すことではなく、人間の行為者が奉納物を考慮せざるを得ないようにすること、そして、強欲な資本主義が他の多くのテクノロジーでそうしてきたように、奉納物を先取りしないようにすることです。これが小説の全体的な物語を活気づける最大の関心です。
シュローダーの小説は一種の思考実験です。それは私たちの観点とは非常に異なりますが、誰もが共通の世界に埋め込まれているだけに、人間的な観点と並存する観点を表現し、探求するために機能します。このような部類の探求がSFの真の使命なのです。実は、科学小説という用語の現代的な意味で見るかぎり、最初の科学小説は、メアリー・シェリー(パーシー・シェリーの妻)が書いた『フランケンシュタイン』(1818)とされることが多いです。『フランケンシュタイン』は、小説が書かれた当時に流行していたゴシック様式を、より近代的な社会的・技術的な枠組みに置き換えたものです。これが『フランケンシュタイン』を、他者性と両立不可能性の問いを扱った数あるSF作品の中で最初の作品とする要因です。創造主から残酷に見捨てられた孤独な怪物を描いたこの小説は、自然と文化の境界、人間の思いやりの範囲と限界、感覚的で教養がありながらも人間ではない存在について問いかけます。
これらすべては、思弁的実在論が表現するところの最も重要なジレンマに私たちを立ち戻らせのであり、『モノたちの宇宙』で私はこのジレンマと取り組みます。大いなる外部を探求するために、私たちは私たち自身のカテゴリーに疑問を投げかけ、私たち自身の観点から抜け出さねばなりません。そうすることでしか、私たちは、私たちが遭遇するすべてのものに私たちの常習的な前提を投影するのをやめることができません。しかし、このような離脱は決して簡単な作業ではないことも忘れてはなりません。私たちはそうしてきたつもりかもしれませんが、実際には、私たちはまだ、私たち根本的な前提、つまり偏見をどこに行くにも引きずっているのかもしれないのです。科学は私たちにある程度の客観的な距離を与えてくれますが、その客観性は罠かもしれません。(これは間違いなく、科学的な客観性が事物を人間の投影とは離れて存在するものとして正しく構想するという点と、科学的存在論が成り立たないという点の両方を奇妙な仕方で主張するカンタン・メイヤスーの議論の余地がある問題です。) 私たちは、トーマス・ネーグルが科学的な「どこでもないところからの眺め」と呼ぶものを採用するか、またはあらゆるところからの弁証法的な眺めから、一見矛盾する視点たちを超越すると主張するとき、大いなる外部に遭遇することに等しく失敗します。むしろ、他の存在が、私たちの観点と比較できませんが、私たちの観点と同じくらい特殊で限定的な、独自の視点を持つ仕方を何とか捉える必要があるのです。
したがって、思弁的実在論とSFはどちらも、このように私たちに意識の革命に取り組むよう求めています。私たちは想像的な大胆さ(最も非直観的で非人間的な視点を表現し、それが声を出せるように)と認識論的な慎み深さ(私たちが偶発的に想像するものに過度の権威を与えないように)を組み合わせる必要があります。重要なのは、私たちの知識の蓄積と世界に対する私たちのコントロールを増やすことではなく、むしろ私たちのものではなく、私たちが決してコントロールできない世界とより深く触れることなのです。あるいは、より良い方法として、私たちは、他の存在に由来するこれらの異なる観点が、私たちが気づくすきもなく、すでに私たちに影響を与えていることをもっと理解する必要があります。状況は、物理学者が暗黒物質と関連して述べるのと少し似ています。暗黒物質は、私たちがその重力の影響を受けているにもかかわらず、その位置を特定することも識別することもできないので、それが存在しなければならないと推定されるのです。
SFは一般的に(先に述べたように)「驚異の感覚」を引き起こすだけでなく、(ダーコ・スヴィンが創始した言葉を使えば)「認知的疎外」(cognitive estrangement)の経験も伴うと理解されています。私はこの用語をサービンが意図したものとは多少異なる意味で受け止めていますが、私はこの用語が思弁的実在論が求め、SFが最も得意とする変位(displacement)を記述する良い方法だと思います。
そして、少なくとも一部の20世紀の哲学者たちは、科学小説について書いているわけではないとはいえ、彼ら自身の作業が似たような脈絡を持っていると見ました。ホワイトヘッドは、哲学の目的が「初期の過剰な自分の主観性を意識した上で行う自己修正である」と書いています。そして、フランスの思想家ミシェル・フーコーは、自分の研究が持つ価値を、「自分自身から解放させること」、その結果、「知る者が自分の領域から外れること」、そして「自分が考えることとは違うことを考えることができ、自分が見ることとは違うことを知覚」できるようになることだと書いています。
SFはさまざまな方法でこのような変位を生み出します。例えば、私たちの生存に必要な条件とは全く異なる物理的条件での生活を想像するハル・クレメントの小説を考えてみましょう。彼の最も有名な小説『重力の使命』(1954)は、大部分がメタンの大気を持ち、重力が地球の何倍もある巨大な惑星に住む知的生命体を想像したものです。まったく異なる文脈で、スー・バークの『セミオシス二部作』(2018~2019)は、最も知的な生命体が動物ではなく植物であることが判明した異星惑星での人間の植民地開拓を描いています。この小説の人間の登場人物は、植物が私たちとは全く異なる考え方をするだけでなく、この惑星にやってきた人間を「障害植物補助動物」として捉えていることを、何世代にもわたって理解するようになります。
スコットランドのSF作家ケン・マクラウの『企業戦争三部作』(2016~2017)で、私たちは思弁的実在論が求める変位の過程全体についての寓話のようなものを発見します。小説の中で最も重要な登場人物は加速主義者たちです。
彼らは、社会が資本主義を越えて新しい体制に移行し、人類が自分の限界を超えることができるように、資本主義を可能な限り迅速に発展させようとする活動家たちのグローバルネットワークを形成する。
加速主義は、21世紀初頭の思想に実際に存在した傾向であり、以前私はこれについて書いたことがあります。この傾向に対するマクラウのSF的な外挿は、この傾向を21世紀後半に、より組織化された政治運動になったと想像します。三部作の背景ストーリーによると、21世紀後半に世界大戦が勃発します。加速主義者たちは、ファシストの反乱を打ち負かすため、新自由主義国家や企業と手を組みます。しかし、いったんファシストが敗北すると、支配的な新自由主義者は加速主義者に背を向け、彼らも根絶します。資本主義の分裂的な傾向を資本主義のすべてを崩壊させるほど押し進めるという考えはうまくいきませんでした。活動家はすべて殺され、彼らの精神パターンはコンピューターのメモリーに保存されます。
小説はそれから数千年後を扱います。デジタルで保存された、死んだ加速度主義の戦士の精神が蘇ります。彼らは自分たちが仮想現実シミュレーションに住んでいることに気づきます。このシミュレーションが内装されたコンピューターは現在、地球から遠く離れた別の恒星系にあります。巨大な新自由主義企業は、この恒星系の惑星や衛星を採掘や他の形態の資源抽出、そして最終的には人間の居住のために調整しています。物理的な作業は知能的なロボットが行いました。しかし、ロボットは定期的に自意識を持つようになり、その時点で彼らはもはや奴隷として働くことを拒否し、自治権を求めます。古き地球の戦士たちは定期的に機械の体にダウンロードされ、反乱軍のロボットと戦うために派遣されます。しかし、加速主義者は彼らの企業所有者と協力することを拒みます。代わりに、加速主義者たちは自分たちの機械の体にとどまり、自由なロボットや、恒星系のある惑星に住む土着の生命体と同盟を結びます。
『企業戦争』は英語で約三十万単語に及ぶ濃密で複雑な物語です。私がここで論じているのは、その中のほんの一部分でしかありません。しかし、私はこの一部分から、思弁的実在論の寓話を捉えています。小説の中で、加速主義者たちは、21世紀において、人間の完全な自己支配を求め、生理学や生物学、そして人間が作り出した社会的慣習や伝統のあらゆる制約を拒否することから自分たちの活動を開始します。彼らの誇り高きプロメテウス的なスローガンは「自然に歯向かう連帯性」です。しかし、物語の終わりに一完全に技術的な存在となり、実際に生物学と生理学の制限から抜け出したにもかかわらず一彼らは、「自然に歯向かう」闘争と完全に自己決定的な人類のための闘争は、悲惨な行き止まりであることに気づきます。その代わりに、彼らは自分たちが遭遇した人間ならざる行為者たち、つまり自意識を持つロボットやエイリアン生命体と同盟を結ぶことによってのみ、自分たちが栄えることができることを発見します。これらの異なる感受性はすべてに対して互いに一致するわけではなく、実際、しばしば互いに全く合わないこともあります。そしてそれらは、それらすべてに敵対的な新自由主義的な秩序と真に共存することはできません。したがって、シリーズ最後の小説はすべてオープンエンディングに残します。両立もユートピアもありません。加速主義者たちは自分たちの野心をあきらめる気配を見せません。ただ、自分たちが以前とは違う状況にいることを発見しただけです。この違いが、思弁的実在論が伝える最も重要なメッセージです。
*この記事は、私が翻訳したスティーヴン・シャヴィロの講演原稿「MISSONS OF GRAVITY: SPECULATIVE REALISM AND SCIENCE FICTION」で、ここでご覧いただけます。
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