可能になった有り難いこと
『脱認知』(Discognition)の韓国語版へのコメント
スティーヴン・シャヴィロ
アンホソン訳(『脱認知』 韓国語版翻訳者)
私の著書『脱認知』が韓国語に翻訳されたことを光栄に思います。『脱認知』は、図書出版ガルムリで翻訳され、出版された2冊目の私の本です。私に代わって本の出版のため努めてくださった出版社の皆様に感謝の言葉を告げます。読者の皆様が私の本を興味深く読んでくださることを願っております。翻訳は常に至難なプロセスであり、私自身は韓国語を話すことも読むこともできません。常に翻訳こそ、意味と感受がある言語から別の言語に伝わったことを記念する理由であり、同様に翻訳こそ、話す、聞く、書く、そして読むという行為を通じて、意味と感受がある脳と身体から別の脳と身体に伝わったことを記念する理由でもあります。私たちは翻訳を当たり前のこととしてとらえがちですが、そうでなければ物事を簡単に成し遂げることができないからです。しかし、成し遂げられたすべての伝達、すべてのコミュニケーション行為、そして事実上すべての思考は小さな奇跡であることに思い返す価値があります。あるニューロンと別のニューロンの間であろうと、ある言語と別の言語の間であろうと、ある身体と別の身体の間であろうと、口と耳の間であろうと、ページと目の間であろうと、そこには常にギャップがあります。最も広い意味で、翻訳はこのようなギャップを行き来する行為です。
私の本のタイトルである脱認知(Discognition)は、実は英語に存在しない造語です。それは、(標準的な定義を引用するならば)「思考・経験・感覚を通して知識や理解を獲得する精神的行為またはプロセス」を意味する「認知」という言葉に、否定または取り消しを意味する接頭辞「脱-」を組み合わせたものです。この造語を使って、私は認知を可能にすると同時に制限するプロセスを指摘し、これらのプロセスが様々なSFテキストや哲学テキストの中心(第1章)、そして一連の生物学的研究論文(最終章)でどのように機能するかを述べようとします。
私の出発点は、すべてが完全に理解できるわけではないという観察です。常にそれ以上の何か、見落とした何か、私の理解から逃れる何かがあります。この「それ以上」または「外部」(extra)は翻訳を介して失われますが、それでも相変わらず重要であり、実際に大きな違いをもたらします。ウィリアム・カーロス・ウィリアムズの詩が表現するように、そこに「あまりにも多くのものがかかっている」のです。食べようとしている桃や、投げようとしているボールなど、ある客体を記述するということは、いつも私の手に負えないものです。言葉ではとらえきれない、客体の様相や性質が常にあるのです。その点で、桃を食べるという喜ばしい経験にはまったく含まれていない桃の様相、あるいは特質もあります。そして、ボールを投げたり、キャッチしたりする経験には完全に含まれないボールの様相や性質が存在します。アメリカの哲学者グレアム・ハーマン(彼の著書の一部も図書出版ガルムリで翻訳出版されたと聞いています)は、このことについて幅広く書著述しています。
しかし、私はここで主にドイツの偉大な哲学者G.W.ライプニッツ(1646-1716)から手がかりを得ています。彼は精密でありながらも普遍的な関心を持った、初期の啓蒙主義の博学者でした。私はここでライプニッツに関する包括的な議論のようなものを試みるつもりはありません。実際、私の目的に仕えるのであれば、彼のアイデアの一部を密かに改変することさえあります。私にとってライプニッツは重要な人物です。というのも、私から見れば、彼はSFを理解する上で重要な3つの原則を維持し、3つの概念を提唱しているからです。その3つの原則とは、以下の通りです。
1. 不可識別者の同一性
2. 充足理由
3. 非矛盾
そして、3つの概念とは次のようなものです。
1. 複数の観点
2. 可能世界
3. 多様性の中の統一
まず、ライプニッツは複数の観点を主張します。ライプニッツは、私たち一人一人が、彼がモナドと呼ぶもの、つまり、意志と感受の核心であり、世界に根ざしていながら、自己閉鎖的であり、世界の他のものから切り離されているものと主張します。現代生物学によれば、すべての細胞、より一般的にはすべての生物は、膜によって内側と外側を隔てられており、選択的にある特定のものだけを内側と外側の間を通過させ、他のものは通過させません。ライプニッツは、現代の私たちが生物細胞について理解していることをほとんど知りませんでしたが、当時の生物学、特に単細胞生物を顕微鏡で観察した最初の人物である同時代のアントニー・ファン・レーウェンフックの研究に強い関心を寄せていました。ライプニッツは、彼がモナドと呼ぶ細胞構造を生命、ひいては世界全体の基本単位と見なす点で、後の科学的発見を先取りしています。
ライプニッツによれば、私は世界の活動的な一部であると同時に、世界から切り離された観客でもあります。私は世界の中である特定の位置を占めており、それを私の観点、あるいは立脚点と呼ぶことができるでしょう。そして、私は私を取り巻くすべてのもの、私が遭遇するすべてのものを、私自身の特殊な立脚点から経験します。私は世界の様々な要素を見、聞き、匂いを嗅ぎ、触れ、味わいます。実のところ、私は世界、そして世界の中のすべてを感じるのです。私の認知—世界に関する私の知識—は、このような感受や経験の継続的なプロセスにとって二次的なものであり、それに依存しています。
認知が感受に依存しているため、それは常に有限なもの、部分的で不完全なものです。私の経験は、私が直接的に認知すること、あるいは自分自身に説明できることをはるかに超えます。実際、私の感受や経験は必ずしも現前的で意識的なものではありません。ライプニッツは、ほとんどの場合、私が意識的な気づきの閾値の下にある「小さな知覚」(petites perceptions)の形で世界に遭遇すると言います。私はこれらの知覚を個々に経験することはなく、それらの総和やその後の結果だけを気づくのみです。例えば、ライプニッツが述べるように、「人々が浜辺に近づいたときに聞こえるざわめきは、無数の波の残響が組み合わさることに由来します」。私は、打ち寄せる波の音をその全体的な音、集合体としてしか聞けません。私は、それぞれの特殊な水滴が発する個々の音を、孤立したものとしては全く聞き取れないのです。ところで、ライプニッツは、私の耳に聞こえる音の集合体が決して一様なものではないと断言しています。なぜなら、一滴一滴の水滴は、互いに非常に微妙に違うからです。これがライプニッツの不可識別者の同一性原理の基礎となるもので、この原理は、2つの分離された離散的な物事が完全に同じであることはあり得ないと述べています。
今回は、ライプニッツの後継者の一人、近代の英米圏の哲学者アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1949)から例を借りてみます。私が太陽の下に立っているとき、私はその光の可視スペクトルを見ことができ、その温かさを肌で感じることができます。しかし、同じく太陽から放出され、同じく私の体にも降り注ぐ紫外線を、私は見ることも、即時に感じることもできません。ホワイトヘッドが言うように、「人間の身体は太陽スペクトルの紫外線から、色の感覚には結びつかない形で因果的な影響を受けます」。それにもかかわらず、「このような光線は決定的な情緒的効果を生み出します」。実際、私は、次の日に目を覚ますと、自分が日焼けしていることに気づき、この種の放射線を概ね遡及的に経験します。さらに悪いことに、もし太陽の紫外線が私の皮膚細胞のひとつまたは複数に突然変異を引き起こしたとしても、何年も経ってから皮膚にがん腫瘍ができるまで、私はそれを感じなければ気づくこともできないかもしれないという点です。『脱認知』韓国語版に付された論文の中で、私は、私たちは世界を知覚することによってのみ世界を経験するのではないと論じています。むしろ、知覚はそれ自体、より広いカテゴリーの一部分であり、私の心や身体が、私の外側に存在するものから、私が気づいているかどうかに関係なく、影響を受ける仕方のサブセットです。
これらすべてに加え—あるいはこれらすべての結果として—外の世界に対する私の感受と経験は決して完全なものではありません。私が遭遇する人々や事物には、理解することはおろか、実際には発見することも、たどり着くこともできない側面が常に存在するのです。ライプニッツは、魂はまるで鏡のようなものだと言います。世界全体が私の中に映し出され、私に表象されます。宇宙全体がそれぞれのモナドに影響を与え、それによってそれぞれのモナドに映し出されます。しかし、ライプニッツは、これらの反射のほとんどは曖昧で混乱していると言います。私は世界のごく微細な部分だけを明瞭に捉えることができます。それ以外のすべては、濁って断片的な、混ざり合った形で私に現れます。ホワイトヘッドは類似した要旨を立てます。私は、ホワイトヘッドが現前的直接態と呼ぶものの操作によって、世の中のいくつかの特殊な事物が私に影響を与える仕方を適切に辿ることができます。しかし、ほとんどの場合、私の経験は、ホワイトヘッドが因果的作用性と呼ぶ形をとります。この様態にいて、経験は、「漠然と彷徨う、手に負えないものとして…現前する私たちの自己を支配する過ぎ去ったものとの接触で満ちている」とホワイトヘッドは述べています。
ライプニッツにとって、(もし存在するとすれば)神のみが、宇宙全体を明晰に知覚することができます。ホワイトヘッドはさらに一歩踏み込んで、神の理解さえも遅きに失したものであり、事後的にしか得られないと示唆しています。どちらの思想家も、私たち自身がそのような明晰さと完全性を得ることは決してないと警告しています。神について何が真実であろうと、すべての人と他のすべての事物は有限なものです。有限で、自己閉鎖的で、自己限定的なモナドである私たちは、宇宙の無限性を不完全にしか把握できません。あらゆる特殊な立脚点は部分的なものであり、私はこの言葉を、英語での二重の意味で使っています。部分的であるということは、全体的または統合的なものではなく、不完全で断片的であるという意味です。しかし、部分的であるということは、また、偏ること、偏見を持つこと、どちらかの側につくこと、公平で中立的というよりは誰かの見方をすることも意味します。私たちの認知は、この両方の意味において、必然的に部分的なものです。どんな有限な存在者も、あらゆるところからの神聖たる眺めや(哲学者トーマス・ネーグルが言うように)客観的で科学的な「どこでもないところからの眺め」を得ることはできません。世界には常に複数の視点があるのであり、それらはすべて不完全なものなのです。有限な存在者として、私たちがこの状況を乗り越える術はありません。
そのようなパースペクティヴィズムは、『脱認知』における私の主な関心の一つです。各章で、私は、世界に対するさまざまな存在者の味方、そしてそれらの観点が私たちの観点と異なる可能性がある仕方を探求するテキストを取り上げます。例えば、計算的な「エキスパート・システム」、ある種の領域特化型人工知能が、何らかの形で感受性を発達させたらどうなるでしょうか?私たちよりも戦略的に賢く、技術的に洗練されてはいるものの、私たちが意識と呼ぶ負担を持たない知的なエイリアンは、どのように世界を経験するのでしょうか? 侵略的な技術的手段で、どこまで人間の意識を操作することができるのでしょうか?変形菌(科学用語では真性粘菌または変形菌綱)として知られる生物は、世界をどのように知覚し、どのように反応するのでしょうか? いずれの場合も、私たちは、私たちが当たり前のように受け止める基準点である人間の観点とは異なる観点に直面します。これらのテキストの著者たちは、そのような見知らぬ観点を私たちが捉えることができる言葉に翻訳しようと努めます。
私がライプニッツから取り入れた2つ目の概念は、可能世界という考え方です。現実世界に関する多くの観点が必然的に共存するように、この現実世界もまた、考えられる唯一の世界ではありません。それは他の可能世界と比較することができます。これらは実際には存在しないが、存在しうる世界です。そのような別世界は論理的に可能であるだけでなく、そのような別世界が生まれるシナリオを想像することできます。これは、ライプニッツや他の哲学者がやっていることですが、SF作家がやっていることでもあります。SFは、実際に未来を予測するものではございません。その代わりに、SFは、複雑性理論家が未来性の可能性空間と呼ぶものを探求します。SFは、私たちの現実世界の状況が時間の経過とともにどのように変化していくかを様々な角度から考察します。SFとは、何が起こるかではなく、何が起こりうるかを考えるものです。SFは、それが書かれ、読まれている現実世界よりも後世の、その向こうに広がる、そしてそこから脱線した、しかし少なくとも潜在的にはそこから発生する可能性のある、代替世界を想定します。
ライプニッツの可能世界の学説には、一つのつまずきがあります。ライプニッツによれば、神は,多くの可能な世界の中から一つの特殊な世界、すなわち、私たちが生きている現実世界を選びました。ライプニッツの主張によれば、神がこの特殊な選択をしたのは、私たちが今ここに生きている世界が実のところ「あらゆる可能世界の中で最善」だからです。そうでなければ、神はそれを選ばなかったでしょう。ライプニッツが生きていた時代にすでに、そして今日に至るまで、ライプニッツはこの大げさな主張で批判され、嘲笑されてきました。最も注目すべき事例は、フランスの啓蒙主義作家であるヴォルテールが彼の小説『カンディード』(1759)で、ライプニッツを、最も恐ろしい大惨事を前にして、「あらゆる可能世界の中で最善の世界であるこの世界の中で、すべては最善のためにある」と繰り返し主張するパングロス教授の姿を用いて滑稽に見せたたことにあります。ホワイトヘッドは、現実世界が最善であるというライプニッツの主張を、「近代の、そして先行する神学者たちによって構築された創造主の面目を保つために作られた、大胆なごまかし」として、より慎んで、しかしやはり気に染まないように特徴づけます。ホワイトヘッドは、私たちに神を非難から救おうとする隠れた動機がなければ、出来事の過程は「単に与えられたものの特徴を持って自分自身を提示し、完全性に属するいかなる特徴をも開示してはいない」ことを認識しなければならないと述べています。つまり、私たちは決して白紙の状態から始めるわけではないのです。可能性は常に、それまでにあったもの、つまりすでに「与えられたもの」によって制約されます。すべてが可能なわけではありません。神でさえ、この制限から逃れることはできません。ホワイトヘッドによれば、これは次のことを意味します。
このような神の働きは、ギリシャ思想や仏教思想における事物の残酷な働きに類似している。最初の指向は、その行き止まりにおいての最善のものである。しかし、もしその最善が悪とすれば、神の冷酷さは災いの女神アーテー(Atè)として擬人化される。殻(実のない者)は消えない火(地獄)で焼き払われる。
ホワイトヘッドにとって、ライプニッツの「最善」には道徳的な意味合いはなく、むしろ物理学者が「最小作用の原理」(the principle of least action )と呼ぶようなものを意味しています。簡単な例を挙げると、水が丘をなだらかに下るとき、最も効率的な経路をたどります。この意味においてのみ、世界は行き止まりから「抜け出す「最善の」道を見出すことができます。ライプニッツについて言えば、彼は道徳的な考慮も念頭に置いてはいますが、彼の「あらゆる可能世界の中で最高」の第一義的な意味は、最も複雑で、最も美学的に報われるものです。ライプニッツが生きた時代は、西ヨーロッパの芸術と建築において、バロック時代と呼べる時代でした。そして彼の美的感覚は、多くの論者(最も有名なのはジル・ドゥルーズ)が指摘するように、非常にバロック的です。ある標準的なバロック美学の定義によれば、それは「その誇張されたシーン、豪華な装飾、濃い色彩の使用、コントラストの配分、非対称性」によって特徴づけられます。別の標準的な定義では、バロック美学を「コントラスト、運動、豊かなディテール、濃い色彩、壮大さ、驚きを用いて、畏怖の念を抱かせること」とされています。ライプニッツが、私たちの世界は「あらゆる可能世界の中で最善」であると主張するのは、私たちの世界が、存在し得る世界の中で最もカラフルで、複雑で、壮大な世界であるという意味です。21世紀の言葉で言えば、ライプニッツの主張は、素粒子の理論が美しく、優雅であることを発見し、その性質を理論の真理値の証と見なす物理学者の主張と非常に似ています。
にもかかわらず、誤解を避けるために、私はライプニッツに逆らって、今日私たちが生きている世界が最善でないことは自明であると喜んで言えます。むしろ、私たちはオルター・グローバリゼーションの人々が言うように、「別の世界は可能である」という信念を持ち続けなければなりません。私たちは、すべての人に基本的なレベルの物質的幸福、快適さ、自己決定権が保証される世界を望んでいます。美しさとときめきはそれと並行して来るでしょう。そして、そのような世界を構築することは、現在の私たちの能力の範囲内であることも私たちは分かっています。もちろん、これは、富裕層や権力者がそういう能力に抵抗しているという事実を除いての話ですが、この抵抗は乗り越えられない障害になるもしれません。しかし、いずれにせよ、私は、より良い世界への私の関心が、ライプニッツの思想と対立するものだとは思いません。というのも、「別の世界は可能である」という私の感覚さえも、可能世界の複数性に関するライプニッツの根本的な洞察に依存しているからです。ライプニッツは、どのような代替的な世界の配置が実現できるもので、どのようなものが実現できないものであるかを考えることを可能にしてくれます。
ライプニッツの可能世界の概念は、一方では厳密な決定論、他方では純粋な非決定論という2つの極端を拒否します。厳密な決定論は、すべてが必然的に厳密な物理法則に従って起こるという考え方です。もしそうだとしたら、起こることはすべて最初から予め決まっていたことになります。状況は今とまったく同じでなければなりません。この理論に関する物理学者ショーン・キャロルの言葉を借りれば、「時間の流れにおける各々の瞬間は、明確で、非人格的で、定量的な規則に従って、前の瞬間から続きます」。もしそうだとすれば、唯一の可能世界は現実世界だけでしょう。原因と結果の硬直した鎖が、今この瞬間まで続き、そしてここから永遠に続くのです。だとすれば、すでに存在するものから正確に導かれないものを想像することは、まったく空虚で無意味なことです。
しかし、正反対の極端もまた疑わしいものです。フランスの哲学者カンタン・メイヤスーは、彼がハイパーカオスと呼ぶ、「ある原因が実際に任意の結果を生み出すことのできる」状況、そして「同じ原因が実際に100の異なる出来事(そしてさらに多くの出来事)を引き起こすことのできる」状況を論じています。メイヤスーにとって、私たちの世界は、究極的には超現実的なランダム性の一つであります。このランダム性の中で、象は、私たちが空気力学について知っていることすべてによって煩わされることはなく、いつでも空を飛ぶことができ、世界の海の塩水は、いつでもおいしいレモネードに変わるかもしれません。実際、これらのシナリオのうち、前者はドクター・スースの愉快な児童文学『ぞうのホートンたまごをかえす』(1940)で描かれており、後者はユートピア哲学者シャルル・フーリエが彼の『四運動の理論』(1808)で構想したものです。しかし、これらの著者はいずれも、そのような出来事に対する因果的な説明を提供します。たとえこれらの説明が完全に虚構であり、現在の私たちの理解によれば科学的に無効であるとしても、それらは依然としてある種の一貫した想像力と物語的な論理を主張しています。これは、「この行動に原因や理由がなくても」何でも起こり得ると主張するメイヤスーとは対照的です。メイヤスーは、彼が科学的または物理的な因果性を拒否するのと同じ仕方、そして同じ理由で、物語的な因果性を拒否します。したがって、メイヤスーにとって想像力とは、厳格な決定論者にとってそうであるように、無意味で空虚なものなのです。メイヤスーが科学小説を明示的に拒絶し、自然法則が「純粋かつ単純に破棄」され、「いかなる現実的または想像的な論理でも説明できない出来事が起こる」虚構の世界を好むことは驚くべきものではございません。しかし、メイヤスー自身も、そのような形の物語は非常にまれで、せいぜい読むに耐えないものだと認めています。
可能世界の観念は、厳格な決定論と過激な非決定論という相反する両極端を等しく拒否するため、科学小説に有用なものです。別の世界は可能ですが、すべての世界が可能なわけではありません。論理的矛盾を伴わないという意味で、抽象的には可能だが、実際には決して起こらない状況がたくさんあります。メイヤスーは、アメリカの分析哲学者デイヴィッド・ルイスのように、世界は極めて偶然的であり、論理的矛盾を理由に排除されないことは、何でも起こり得るという見解を保持しています。しかし、これは過去と現在を網羅して、ほとんどすべての人間の経験と矛盾しているように見えます。ライプニッツは、メイヤスーやルイスと同様に、ある言明とその否定が同時に真であることはあり得ないとする「非矛盾の原理」(Principle of Non-contradiction)を支持します。しかし、ライプニッツは、ここに彼が「充足理由の原理」(Principle of Sufficient Reason)と呼ぶものを付け加えます。「私たちは、それがそれであって他のものではない充足理由なしには、いかなる真の事実も、存在する事実も、真の主張も見いだすことはできません」。つまり、たとえ何事も完全に決定されていないとしても、いったん何かが起これば、それは特別な理由があって起こったことなのです。たとえ「ほとんどの場合、これらの理由は私たちには分かることのできないもの」だとしても、これは必然的に真でなければなりません。
これは、論理的に可能なことが、すべて実存的に可能なわけではないということを意味します。事物たちが常に調和するとは限らないのです。ライプニッツにとって、ある特殊な事物がそれ自体で可能であるということだけでは不十分です。それはまた、他の事物と同じ世界で共存できるものでなければなりません。異なる状況もまた、互いに共可能的(compossible)であるべきです。非矛盾率を抽象的論理から現実世界の状況に拡張したことは、ライプニッツの哲学的革新の一つです。ライプニッツは共可能性を主張することで、今日私たちが環境的あるいは生態学的な理解の態様と呼ぶものの出発点を提供します。
ライプニッツにとって、共可能性とは、彼がモナド間の「予定調和」(pre-established harmony)と呼ぶものによるものであり、それは神によって課されたものです。しかし、ホワイトヘッドのような現代思想家は、そのような調和は、単に「経験の契機における様々な要因の相互適応」によって、内在的に、リアルタイムで生じ得ると主張しています。事物たちは、互いに適合し、融合することなく要素を交換することによって、存在し続けます。神が事前にすべてを準備する必要はなく、共可能性を説明するにはリアルタイムでの進化で十分なのです。
以下は、共可能性または実際の非矛盾の例です。地球上のすべての生命体は水と炭素をベースにしています。私たちが知っているように、生命体には液体の形の水が必要であり、これは生命体が存在できる物理的条件を制約します。
水中で代謝と成長が起こりうる最高気温は摂氏122度(華氏252度)で、高圧熱水噴出孔でその例を見ることができる。最低気温は摂氏マイナス18度(華氏約0度)のように思われる。(「水ベースの生命体の新しい分類体系」)
これとは対照的に、私たちは、気温が摂氏464度、気圧が地表の92倍もある金星の地表には、水ベースの生命体は存在しないと推定しなければならないです。言い換えれば、私たちが知っている生命体と金星の気候条件は、相互に共可能的ではありません。もし金星の表面に生命体が存在するのであれば、それは地球上の生命体とは全く異なる構成と組織を備えているに違いありません。ヤン・シュパチェクとスティーブン・ブレナーという2人の科学者は最近、金星の生命体が硫酸を浴びた自己組織化し自己複製する赤い油滴の形で存在する可能性のあるシナリオを提唱しました。そのような生命体は、少なくとも金星の条件と共可能でしょう。
金星に生命が存在する可能性についてこの論文を書いた科学者たちは、この論文を思考実験のつもりで書きました。彼らはそのような生命体が現実に存在すると主張していないのです。そのような論文をSF作品とみなすことは間違いではありません。SFを定義する方法は様々です。SFを定義する方法はたくさんありますが、私はとりわけ、SFとは可能世界を構成するために、共可能な状況を表現する芸術であると提案したいと思います。これが、SFをファンタジーなどの密接に関連する他のジャンルと区別するものです。SFもファンタジーも、私たちが住む現実世界とは根本的に異なる世界を提示するという点では似ています。しかし、SFの可能世界は、可能性の問題が前面に出てこないファンタジーの世界と、少なくとも原理的には区別できます。かつてアメリカのテレビプロデューサーであるロッド・サーリングは、「ファンタジーはありそうになった不可能なもの」であるのに対し、「SFは可能になった有り難いこと」とその違いを説明しています。
このように、ライプニッツの可能世界の学説—論理的に矛盾しないだけでなく、状況的にも矛盾しない世界、あるいは共可能な要素で構成された世界—は、私が『脱認知』の中で認知と意識の問題についてどのように書いているかの根底にあります。私が論じるそれぞれの物語は、特定の形や様式の感受性を映し出すだけでなく、そのような感受性を進化させ、開花させることができる可能性のある世界や環境をも想起させます。この世界は、企業のメインフレームかもしれないし、コンピューターゲームのネットワークかもしれません。あるいは、政府の諜報機関が恐ろしい方法で人々をコントロールし、操作するハイテクノロジー人間の世界かもしれません。あるいは、別の恒星の周りを回っている、地球とは根本的に異なる進化を遂げた世界かもしれません。そして最後に、地球固有の水と炭素ベースの生命体ではあるものの、その生命体を取り巻く特殊な物理的環境が、私たちがほとんど理解できない感覚や認知様態を要求する世界かもしれません。
そこで、3つ目に挙げたライプニッツの概念、「多様性の中の統一」に行き着きます。ライプニッツがSFに深く関係しているという主張は、私が始めたことではございません。アメリカの批評家リチャード・ハルパーンは、「ライプニッツは哲学者であると同時に、初期のSF作家である」と示唆し、ライプニッツの哲学的文章には「スタニスラフ・レムやフィリップ・K・ディック、リューツ・シンの文章を特徴づけるような、濃密な知的美がある」と付け加えました。ハルパーンとは別に、フランスの哲学者ギィ・ラルドローは、ライプニッツが可能世界についての彼の考えを説明するために展開した虚構と、SFが独自のパラレルワールドを想像する方法との間の「驚くべき相同性」と彼が呼ぶものを追跡するために、「Fictions philosophiques et science-fiction(哲学的虚構とSF)」という本全体を書いた。もちろん、この並列性は厳密には歴史的なものではありません。今私たちがSFと呼んでいるものは、ライプニッツ時代の文学には存在しませんでした。確かに空想的な物語はありましたが、それは、今日SFと呼ばれるものよりも、私たちが現在ファンタジーと呼ぶもの、あるいは笑劇や風刺に近いものでした。
しかし、ライプニッツは当時の最も先進的な思想家の一人でした。彼の時代には思考実験という概念がまだ適切に存在していなかったにもかかわらず、彼はすでに、今でいう思考実験を深く理解していました。GedankenexperimentとGedankenversuchというドイツ語は、ライプニッツが亡くなってからほぼ1世紀後に初めて証言されました。しかし、その概念は、たとえあからさまに理論化されていなにせよ、ライプニッツの実践の中にすでに存在しています。科学的、哲学的に重要な考えを発展させるためには、しばしば架空の主張を展開し、その帰結をたどらなければなりません。私が『脱認知』の第一章、心理哲学者たちが「メアリーの物語」と呼ぶものについて考察しているように、今日、哲学者たち自らこのような活動をしています。しかし、SF小説もこのような活動をしており、哲学的な文章よりも幅広く大胆なスケールで書かれることが多いです。いずれにせよ、哲学的な思考実験やSFの寓話は、多様性の中の統一というライプニッツの原則に忠実であるため、虚構的ではない問題に取り組むことができます。哲学的虚構やSFの物語がいかに奇妙で破天荒なものであったとしても、それが理解できるのは、描かれている状況が、私たちがすでに慣れ親しんでいるものと共可能的である限りにおいてです。
多くの研究者が、ライプニッツが同時代のファンタジー文学に魅了されていたことを明らかにしました。ラルドロー、ハルパーン、ジャスティン・E・H・スミスはいずれも、ライプニッツが、1684年に初演されたノラン・ド・ファトゥーヴィル作のフランスの笑劇『アルルカン、月の皇帝』(Arlequin, Empereur dans la Lune)に登場するハーレクインというコメディア・デラルテの人物を、特に好んで引用していることに注目しています。この舞台劇の中で、月の皇帝としてのハーレクインは、月での生活がどのようなものかを長々と描写しています。彼の描写はすべて風刺的で、本来のパリの観客にとって馴染み深い対象を揶揄しています。劇中では、ハーレクインが何かを描写するたびに、他の登場人物たちは「すべて、ここにあるがまま」(c'est toute comme icic'est toute comme ici)と言います。ライプニッツは次のように述べながらこの戯曲に言及します。「自然的なものに関する私の大原則は、月の皇帝ハーレクインのそれです…それは、常に、そしてどこでも、ここにあるがままに、万物の中にあるということです」。言い換えれば、たとえ月の上であっても、たとえ滑稽な道化が皇帝であったとしても、事物たちが互いに組み合い、意味を生み出すために作用する方法は、私たちが日常生活で慣れ親しんでいるものと何の変わりありません。つながりの論理の統一性は、事物、出来事、存在のあり方の想像しうる限りの多様性を結びつけます。だからこそ、虚構は実在について教えてくれるのです。風刺は、風刺される状況に似ていながら距離がある場合にのみ、風刺の対象に的中します。もっともらしい、あるいは単に読みやすい虚構の世界は、私たちが生きている現実世界と同じ論理、あるいは同じ接続と変化の原則に従わなければなりません。これがおそらく、SFが表現する内容が、たとえ想像的あるいは反事実的なものであっても、そのテキストにおいては伝統的な表現の規範に従う理由でしょう。
結論として、このすべてが、私が『脱認知』において、SFは「[哲学的な]問題を登場人物と物語の中に具現化する」ものであり、「それらのシナリオの最も奇妙で極端な波紋を通して進行し、もしそれが真実だったらどうなるかを想像する」ものだと述べている理由です。SFとは、未来を予測するものではなく、まさに、私たちがその内容を知ることのできない、そして非常に奇妙な状況を含むかもしれない未来を取り上げ、探求する方法なのです。伝統的な哲学は、社会的で形而上学的な仮説の土台を精査し、その根底にある前提に欠陥がないかを探ります。対照的に、SFはそのような仮説の帰結に注目し、時間の経過に伴うその潜在的な発展を追跡します。これこそがSFの醍醐味であり、私がSFのテキストからその意味を引き出すことで見せようとするものなのです。
*この記事は、私が翻訳したスティーヴン・シャヴィロの講演原稿「THE IMPROBABLE MADE POSSIBLE」で、ここでご覧いただけます。
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